バリー・カーズィンの旅 Ⅰ −South China Morning Postより

バークレーのヒッピーからダライ・ラマ法王の専属医になるまで ~バリー・カーズィンの旅

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アメリカ人医であり仏教僧侶でもある香港大学の客員教授が、今回ケイト・ホワイトヘッドに、彼が妻を失ってから、どのように信念を見つけてダライ・ラマ法王の専属医にまでなったかを話した。

死の扉で

わたしは南カリフォルニアで育ち、夏は日が長かったので、夜ごはんのあとにもよく外に出かけ、たくさんの近所の子どもたちと通りでスポーツをしていました。私には弟と妹とがいます。私の父は小学校の先生をしていて、母は精神病院で働き、心理セラピストになりました。彼女はとても優しく、輝いていて素晴らしい女性でした。私は活発な子どもで、いつも遊んでいました。でもある日、ひどい頭痛がして家に帰ってきました。病院に行くと脳腫瘍があるとわかり、そのまま昏睡状態になって危うく死に至るところでした。その後何ヶ月か入院しました。腫瘍の一部が私の左上部の頭蓋骨を腐らせてしまったので、その骨を取り除かなくてはいけなくなりました。その後何年か、骨が成長するまでヘルメットをかぶっていましたが、私が13歳のとき、脳神経外科医がプラスチックのプレートを入れることを決めました。私はその外科医を慕い、彼のようになりたいと思いました。

2つの目的

私には哲学と医学という人生を貫く2つのがあります。私がとても若かったとき、「私は誰なんだ?ここで何をしているんだ?」という問いが、いつも自分を悩ませていました。私が14歳くらいのとき哲学クラブに入り、15歳のとき私のところに禅仏教の2冊の本が来て、それにとても心を動かされました。ひとつは鈴木大拙で、もうひとつはアラン・ワッツによるものでした。私はUCバークレー大学で哲学を専攻しました。その後大学で哲学を追求するかどうか、まだはっきりしていませんでした。私はいつも反体制的なヒッピーで、髪を伸ばし、髭が生えていましたので、医学学校に入学しようと決めたときにはそれではうまくいかないだろうと知っていました。

天の引き合わせ

私の妻になった女性は、お互いが小さい頃から知っていました。一年に一度、私たちの家族同士は休日を祝うために集まっていたんです。私たちは少し一緒に遊びましたが、そんなに沢山ではありませんでした。私が学生のとき、母が彼女がバークレーにいると教えてくれました。そして、「彼女はいまヒッピーで、反戦運動をしているのよ」と言いました。私は母が彼女とその家族が好きだったので、私たち二人をひきあわせようとしているのだと思いました。私たちの最初のデートでは、「世界をゆるがした十日間」を見ようとしていましたが、それは上映されていなかったので結局シェイクスピアの「じゃじゃ馬ならし」を見ました。バークレーは反戦運動が盛んでかっこよく、盛り上がっていました。私たちは週末にはよくサンタクルーズに行って、少しの間、平和と静寂を感じていました。そして私が医学学部に入る3日前に私たちは結婚しました。そして3日間のハネムーンに出かけましたが、それはただ素晴らしく、でもそれで十分ということは何もありませんでした。そしてジュディは法学部に進みました。それからの3年間はお互いに忙しすぎて、会うことがほとんどなくなりました。法学部では3年間、医学部は4年間でした。

自分を見失う

私はジュディが卵巣ガンと診断されてから数ヶ月後、カリフォルニアで個人開業を始めました。医師たちは、自分の家族を治療するなと言いますが、私はそれは賢いと思います。私は彼女の医者にはなれませんでしたので、彼女の看護師になり、注射や薬物治療を施すことで、それまでよりずっと長い時間を共に家で過ごせました。その頃私たちは本当に深く繋がり、時々文字通りひとりの人間であるかのように感じられました。私たちにはもうあまり時間がないことを知っていました・・ガンは腹部の裏から胸、心臓まで進行しました。彼女は息が出来ず、話すこともできませんでしたが、意識ははっきりしていて筆談で人と話をしていました。そして彼女は昏睡状態に陥って亡くなり、私の人生は崩れ落ちました。私たちは11年間結婚生活を送り、14年間共にいたのです。昼間は友人と過ごすことで自分自身を少しは紛らわせることができましたが、一番辛かったのはひとりでベッドに入るときでした。その後2~3年間はかなり向こう見ずになっていました。キノーナショナルフォレストでのカヤックでは危うく死にかけ、他にもスキューバダイビングや登山などでも数回ありました。自分から自殺しようとしていた覚えはないですが、もう気にかけていなかったのだと思います。

アジアに呼ばれて

1984年、ジュディが死んで6ヶ月後、私はインド、スリランカ、ネパールに8ヶ月間行きました。全てと折り合いをつけようとしていたのだと思います。帰国して約1ヶ月間自分の開業を続けようとしましたが、これまでと同じ場所、同じ状況にいるのは難しいことだったので、
ワシントン大学で一般診療の教授としての仕事を得ました。その頃仏教のプラクティスをしており、さらに深めたいとも思っていました。1989年に6ヶ月の休暇をとってヨギの先生と一緒にインドにいきました。ダラムサラのチベット医療研究所で働きましたが、そこは医者をトレーニングしたり、ハーブ薬をつくる薬局や、患者を診るクリニックがあるところでした。

 

罪と針

1年後、私はインドに移住し、ダライ・ラマ法王の医師になりました。彼はリオデジャネイロでの環境会議に出席する予定でしたが、コレラが流行していると事務局が聞きました。彼は私を呼んで行くべきかどうか尋ねました。私は、もしその会議が重要なら、水と食事に気をつけて、ワクチンを持っていれば大丈夫だと思いますと答えました。そして彼に注射する時、私は彼の腕に針を刺すことでまるでブッダの体を侵害しているようで、とても緊張していました。その後、彼は私を、彼が黙想に使っていた隣の部屋に連れて行きました。テーブルには彼の黙想用の曼荼羅があり、彼は私の手をとってテーブルの周りをゆっくりと歩き始めました。いくつかのガラス棚があり、彼はその中の小さな像を指さしました。それはチベットで1000年以上前に見つかったもので、彼はそれについての話を教えてくれ、また曼荼羅の周りをゆっくりとまわりました。すると彼は曼荼羅から2つの半貴石を取り、私にくれたのです。それは小さな水晶とターコイズの石で、いつも私はそれを自分の首にかけています。

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Ⅱに続く・・

出展:South China Morning Postより(英文)