
質問:
コンパッション(慈悲)を実践するときに「自分にとって良い気持ちがする・良い感覚がする」ということの危険性はありますか?
「すごく自分がいいことをやっている」という、エゴが増大する危険があれば、その分けめはどこにあるのだろうか?と思います。
Dr. バリー・カーズィン:
その危険性(エゴが増大する危険性)はありますね。
「私はなんて良い人なんだ」「自分は人を助けている」と思ってしまう危険はあります。
そのようなときは、「自分に休みを与える必要がある」ということです。
自分が完璧なことはありません。自分が100%純粋であることも、ありません。
また、「常にずっとコンパッション(慈悲)を実践しているわけではない」と気づいたときに、「そんな自分はダメだ」と思わなくていいということです。
自分が調子にのってしまっているときもあるかもしれないので、そういうときは気づいて、謙虚に「いま調子にのっていたな」「エゴがふくらんでいたな」と気づく。そしてまたコンパッション(慈悲)に戻っていきます。
もうひとつ可能性があるのは、「いい気持ち」に執着がおきてくるということですね。いい気持ちに執着して、それを動機に人を助けるという場合です。ただ、ダライ・ラマ法王は、それでもよいとおっしゃっています。ただし、「とりあえず今」は「OK」、という注意がついています。実践を続けていって、さらに成熟するようになっていき、私たちの中の智慧の理解が深まっていくと、徐々に執着も減っていくと思います。しかし、最初からそこまで求めず、「ただ人を助けるのが気持ちいいから人助けを行う」というのも、ダライ・ラマ法王は最初は良いでしょう、とおっしゃっています。
このことは、ある意味では、「健全な欲求」と「不健全な欲求」の違いを意味します。あるいは、「健全な執着」と「不健全な執着」とも言うことができます。
「人を助けることが気持ちいい」というところから始めたとしても、いずれはそこから執着がはずれていけばよいということです。ただし、「とりあえず今は」よい、ということです。