
2019年7月7日に、かえつ有明中・高等学校にて「癒されたわたしがつくる教育」が開催されました。
今回もDr. バリーと現役教諭の佐野和之先生、元教諭で教育学研究を行なっている金井達亮氏が、参加者の方々と共にこれからの教育について考える、豊かな時間となりました。
Dr. バリー・カーズィンによるレクチャーの一部をご紹介します。
「癒す」という見方を取る場合、その前提になるのは、「病んでいる」という事です。怒りの感情がある、他人に嫉妬する、人に対して優越感がある、自分は人よりも劣っているという感情があるなら、それは「心の病」「心の疾患」と呼んでもいいのです。
通常、私達が楽しいと感じる事、快楽自体は、私達の外側に由来しており、表層的と言えます。これらの感覚は、私達の五感でわかるものです。
しかし「心の平和」「心の平安」と呼ばれるものは、私達の内側に由来する、内的な体験です。これは概念を超えており、五感でわかるものではありません。
「内なる平和」とは、全てが大丈夫だという意識の事です。その状態では不安や恐れがなく、怒りが出てきません。自分を卑下する事もありません
「ウェルビーイング」(Well-Being)とは、この内側での経験であり、人間としての全ての可能性の活性化につながります。教育のエッセンスとも言えます。
知識を教える事は重要ですが、問題を分析し、論理的に解決策を導き出す能力を育む事は更に大切です。若い人に対し、お互い対立する時に、暴力ではない方法で解決するように教育する事が求められます。
外側に由来する楽しさや快楽は、長く続きません。必ず終わりが来ます。
「内なる平和」は瞑想により、もたらされます。それは、自然の中に身を置く事(森林浴など)でも、同じです。
また、ネガティブ(否定的)な感情はウェルビーイングを妨げます。教員の「バーンアウト(意欲を失い、何事も面倒に感じ、興味を喪失するなど、投げやりになる現象)」の原因と言えます。
ネガティブな感情の代表は怒りです。怒りの前兆は、イライラしたり、悲しくなったり、孤独感を抱いたり、心臓がドキドキと脈拍が早くなったり、顔がカーッと血が昇ったり、顎を噛みしめたり、拳を握りしめたり、自分に失望したり、挫折感を味わったりすることです。
この前兆に気づくためには、どうすればいいでしょうか?
私達は、日頃、自分の外側に注意を向けていますが、ここでは、自分の内側に注意を向ける事が必要です。マインドフルネスとは、自分が何を感じて、感えているかに気づく事。決して難しくありませんが、繰り返し実践する事が必要です。つまり、自分を癒す事に興味があるかどうか、重要な点になります。
自分の感情が、怒りに完全になってしまう前の状態、つまり、怒りになりつつある状態に気づく事が大事です。怒りの反対は忍耐。怒りが爆発する前に何か出来ないでしょうか。例えば、怒りの感情で出来ている水晶玉を想像し、それが粉々になる事を想い描くことができます。このような実践を根気強く続ける事が大切です。
怒りより難しいのは、嫉妬心への対処です。何故なら、怒りよりも気づきにくいからです。マインドフルネスに、自分をよく観察し、気づく事が必要になります。嫉妬心の反対は、その相手と共に喜び、感謝する事です。
自分への驕りや傲慢さも、ネガティブな感情です。これらは周囲から孤立し、友達が離れてしまう事態を招きます。驕りや傲慢の反対は謙虚さや謙遜です。謙虚さは教育の柱と言うべきもので、本当に謙虚であるという事は、自分を卑下するのではなく、勇気がいる事です。
自分の内側で感じている事と、外側で表している事が一致している事が大切です。そこに偽善があると病気になりやすいからです。でも、一致していないからといって、自分を責めないようにしてください。期待が高すぎることも、ウェルビーイングを妨げます。
瞑想とは、健康で幸せにあるように心を訓練する事とも言えます。ありのままの現実に向き合い、心を、今の状態に置く事であり、自分は何者なのか?問いを続ける事です。
一点集中の瞑想(シャマタの瞑想)は、鼻の穴の真下に注意を向けて、自分が呼吸している事に集中します。黙想や分析的瞑想と呼ばれるものは、愛や慈悲、智慧や洞察について考え、感じる、またそれ自体になるというものです。
物事は、見たままが現実という訳ではありません。
私達は物事を、不変であり(Permanent)、それ自体が部分ではなく、分かれておらず(Partless)、独立している(Independent)と認識していますが、これは誤りです。この誤りを無知無明(Ignorance)と言い、これを取り除くのがコンパッション(慈悲)とも言えます。
Dr.バリー・カーズィン