「私とはどこにいるのか?」2019/9/11 シャーンティデーヴァ『入菩薩行論』開催報告

2019年9月11日に、Dr.バリーによる「シャーンティデーヴァ『入菩薩行論』」が開催され、今回は9章 智慧の章の続きを学んでいきました。

講義やテキスト、質疑応答などから一部ご紹介します。


この本(入菩薩行論)に書かれた教えは、自分自身をさらに満たしてくれるものですが、その内容はとても革新的でラディカルなものです。

私が若い頃、チェ・ゲバラ(キューバの革命家)は私にとって英雄でした。その革命的な思想は、特に経済システムの変革において顕著でした。この本はゲバラよりもカール・マルクスよりも革新的です。何故なら、私達が当然だと思っている事、つまり、物事は不変で実態がある(存在している)と信じている事、その前提に対して、本当にそうなのか?と挑戦するものだからです。

その意味で、この本は、私達に課題を突きつけてきます。仏陀も、ゲバラやマルクスと同じように革命家だと思います。仏陀は瞑想により人間の生き方に革命を起こそうとしました。私達が当然だと信じて疑わない事に、それは本当か?と挑んでいると思います。仏陀は自分が真実だと思う事に疑問を持つように諭しました。

例えば、私達は、物事は不変で変わらないと信じています。一つの状態に固定していると信じています。でも、よく考えてみると、物事は不変ではない事に気づきます。

例えば、自分の身体をよく見てみると、体内の血液は一つの場所に留まってはおらず、常に流れています。つまり、私達の身体は常に変化しているのです。同じように、私達の心や意識も、ある事柄を思い浮かべていても、瞬時に他の事柄を思い浮かべています。常に動き回っています。

それらから、私達が真実だと思い込んでいる事には間違いがあると言えます。それを私はよく「PPI」と言っています。

一つ目の間違いは、物事は不変だ(P:Permanent)という考えです。
二つ目の間違いは、物事は一つのまとまりで、部分がない(P:Partless)という考え。
三つ目の間違いは、物事はそれ自体が単独で存在する(I:Independent)という考えです。つまり、本当は物事は多くのものに依存して成り立っているのに、他とは関係なく、それぞれ独立して存在していると考えてしまうことです。

これらの説明を聞いても、「だから、なに?」と思ったり、あまりピンとこないかもしれません。でも、この「間違い」を身の回りの人間関係に当てはめてみてください。

例えばよく知っている人を思い浮かべて、「この人はこういう性格の人だ。こういう人間だ」と思い込んでしまうのは「間違い」だという事になりますが、普段よく知っているつもりの人でも、「こんな一面があるのか」と驚いたり、新鮮に感じた経験はないでしょうか?

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『入菩薩行論』は今から1300年前にインドの聖人であるシャンティデーヴァが書きました。以来ベストセラーで、何十億万部という発行部数を数えます。本の概要は、いわば「菩薩の生き方へのガイド」(英訳の書名)です。著者のシャンティデーヴァ(内なる深い平和という意味)は、インド北東部にあったナーランダ僧院の学僧でした。

この本は菩提心を深める事を主題としています。全9章の内、第8章までは、主にこの菩提心(慈悲心)について著しており、第9章では智慧あるいは空(くう)について説いています。この菩提心(つまり、慈悲心)を完全に持って実践しているのが、菩薩という存在です。

第9章の内容を深く理解するにつれて、「私達は存在しないのではないか?」という恐怖心が沸き起こってくる事がありますが、それも次第に深い喜びに変わります。

この章では通常(世俗)の真理と究極の真理について説明しています。
前者の「通常(世俗)の真理」の視点では、「言葉が存在するということは、全てが存在する事である」と述べています。しかし、後者の「究極の真理」の視点、つまり全ての存在の質(クオリティ)の視点で捉えると、「究極のレベルでは何も存在しない」という事になります。ただし、それは「自分が思っていたようには存在しない」という意味です。仏教の物事の捉え方としては、人や動物などの生きているものと、それ以外のもの(phenomena 現象・事象)に分けています。また、私の身体はどこに存在するするのか?感じる事(楽、苦、そのどちらでもない中立)などについても触れています。

ーDr. バリー・カーズィン


テキスト『入菩薩行論』より一部抜粋

102番
内側から実体をもって存在するのか。私達の意識は目などの感覚器官には存在しません。目などの感覚が捉える対象そのものに、意識が存在するのでもありません。また、目などの感覚器官と、その対象との間に意識が存在するものでもありません。私達の意識は身体の内側にも外側にも存在しません。

103番
私達の意識は身体ではありません。身体以外に存在する訳でもありません。意識は身体そのものではありません。完全に分離している訳でもありません。

105番
形あるものは一瞬一瞬変化しています。全ての事象は、真には実体をもって存在しません。

<分析的瞑想>
この瞑想では「私(=自分の名前)はどこにいるのか」を探してみてください。
最初は身体の内側を探します。頭にいるのか?目にいるのか?胸にいるのか?胃にいるのか?腸にいるのか?性器にいるのか?髪にいるのか?
次に身体の外側を探します。どこか外に自分を置いて来たのでしょうか?例えば、東京のスカイツリーを思い浮かべている時、自分はスカイツリーにいるのでしょうか?
・・・少しの間、分析してみてください。

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質疑応答より

参加者A:分析的瞑想をしてみて、過去の嫌な記憶が今の自分を振り回している事を発見しました。自分にとって悪い記憶と呼べるものが、今の自分の暮らしに結びついています。どう対処すればいいでしょうか?

Dr.バリー:今、この瞬間あなたは、過去の悪い記憶の中にいますか?

参加者A:今はいません。

Dr.バリー:つまり、常に過去の悪い記憶の中にいるわけではないということです。あなた自身が、悪い記憶を超えて、自分がいるのだという事に気づき続けてください。

昔は音楽をレコードで聴いたものです。気に入って同じレコードを何度もかけていると、盤面に傷をつけてしまう事があり、その傷ついた箇所に差しかかると、レコード針が飛んで曲の途中の部分を何度も繰り返してしまい、その先に進まないという事がありました。だから、その時はレコード針を少し動かしました。そうすると曲も先に進んだのです。

人は過去の記憶にいる事を続けていると、例えその記憶が悪いもの、嫌な記憶であっても、次第に心地良くなってしまいます。だから、そこから自分を動かす事が必要です。レコードの針を持ち上げて動かすのと同じです。最初は変な感じがするかもしれません。

悪い記憶は、今の現実ではないという事、過去の過ぎ去った事であり、今の自分は過去にはいない、という事を思い出してください。この時、呼吸に集中する瞑想の実践なども助けになります。呼吸に集中する事で、今にいる事が感じられるようになります。

また、自分に向けて、慈悲の心、思いやりと優しさをもってください。過去の悪い記憶があっても、自分は悪い存在ではない事に気づいてください。

・・・・・・・

参加者B:私は分析的瞑想を行なう事で、自分はどこにも存在しない、と気づくのが怖くなっています。出来れば、この瞑想を避けたいとすら感じています。

Dr.バリー:勇気を持って質問してくださって、ありがとうございます。私自身にも、過去に、智慧、空の教えを聞いたときに、そういう体験がありました。でも、怖がる事はありません。何故なら、究極的には存在するからです。次第に、ただ存在するという事と、究極的に存在する事の違いがわかるようになると思います。


<参加者の声>

・内容の深さにとても驚きました!とんでもなく深くてびっくり。しかも何年にも渡って開催されていたとは。とにかく瞑想実践するのみ。コツコツ
・「今」にいる訓練がさらに必要と強く感じた。
・自分自身に問いをする時間を日々作っていきたいと思いまいた。
・私はバリーさんがラディカルなので続けてこれていると思う。通訳の人も素晴らしい。

「智慧」の学びから、自分とは何か?どこに存在しているのか?という真実についても追求していく時間となりました。すぐに答えの出ることではありませんが、繰り返し揺さぶり、考え続けることで、少しずつ意識にも変化がでてくるようです。

引き続き、またご一緒に学べることを楽しみにしております。

当日詳細ページはこちら

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