エンパシー(共感)を越えて、コンパッション(慈悲)へ

質問:
これまでのレクチャーから、エンパシー(共感)とコンパッション(慈悲)について学びました。
「エンパシー(共感)だと苦しみが大きすぎる。そして自分の心が病んでしまうから、コンパッション(慈悲)にするほうがよい」と私は理解しました。
私からの質問として・・・誰か苦しんでいる人がいたら、自然ともらい泣きしたりすると思うのですが、それはエンパシー(共感)であって、その自分に気づいて「いやいや、これではいけない。コンパッション(慈悲)に行かなきゃ」と思うのはどうなのでしょうか?
あるいは、最初からエンパシー(共感)ではなく、コンパッション(慈悲)に行けることが理想なのでしょうか?

Dr. バリー・カーズィン:
ポイントは、エンパシー(共感)を飛び越えて、いきなりコンパッションに行くことなのですが、ただ、コンパッション(慈悲)と言っても、相手の人が悲しんでいたら自分が涙することもあります。

エンパシー(共感)のほうの難しさは、相手の人の苦しみや痛みを私たちは感じるため、そこに「共感」というところが強く強調され、自分では抱えきれない痛みになることがあります。そうすると、マヒしてしまって、あまり効果的なことができなくなるのが問題なのです。自分が疲れてしまって、疲労困憊になることがあります。

コンパッション(慈悲)のほうは、どちらかというと、相手の人の痛みや苦しみが減ること、あるいはなくなることを願うことであり、そのように行動することです。なので先ほど言っていたように、いきなり飛び越えてやることは確かに難しいことかもしれないのですが、そこに挑戦していくのです。エンパシー(共感)を通らずに、直接的にコンパッション(慈悲)に行く、ということを挑戦していくことになります。

とくに医療関係(医療従事者)の方々には、エンパシー(共感)というものがバーンアウト(燃え尽き)に繋がる確率が高いです。なぜかというと、あまりにも共感して相手の人の痛みを自分のものにしてしまうと、アルコールに逃げたり、ドラッグに逃げたり、それから人間関係に支障をきたす/男女関係に支障をきたす、あるいは自殺に繋がってしまうことがありえます。

そのようにエンパシー(共感)でとどまってしまうと、その苦しみがずっと続いてしまいます。コンパッション(慈悲)というのは、どちらかというと、相手の人から少し感情的な距離をとることになります。そして相手の人の苦しみ、痛みそのものを自分のものにしない、そういう姿勢です。それは教育者の方々も似ているところがあって、生徒さんの痛みを自分の者にしてしまう、自分の痛みにしてしまうので、バーンアウト(燃え尽き)、疲れにつながってしまいます。

– 2018年8月5日開催「ヒューマンバリュー・瞑想プラクティスグループ」質疑応答より